カップリング研究:小次×健3




それからの若島津 〜 変わりゆくコジケンと萌え意識

当サイトをご覧の皆さまの中にも、C翼の続編を読んでいない方は多いことでしょう。
確かに若島津ファンにとって楽しい話とは言えません。「中学の全国大会以降はまったく関心がない」「“かませ犬” “沖縄女” “コンバート”など、悪い噂ばかりで読む気が失せる」等のご意見も伺っております。かくいう私も続編(ワールドユース編、ROAD TO 2002)をまともに読んだのは、サイトを始める直前の2004年頃。あまりの展開に呆然とし、通帳を渡す場面にすら素直に悶えることができませんでした。
でも今ははっきりと言えるのです。続編の存在は、コジケン派にとって追い風であったと。我々腐女子にとって、中学生編しかなかったときよりもはるかに萌える状況を作り出してくれたのだ、と。
ここでは、全盛期〜現在の同人作品の内容からうかがえる「C翼続編シリーズのコジケン的意義」について考察します。私のような出戻りファンが同人誌の時代的傾向について語るのは難しいのですが、ブランクが長いからこそ感じる印象の変化という観点から論じてみたいと思います。

私はC翼ブーム真っただ中の80年代半ばに勢いでハマり、すぐに飽きてやめた、膨大な浅いファンのうちの一人でした。
同人誌を読んでいたのは十代の頃、正味2年くらいです。5〜6人読み仲間がおり、皆コジケンでやおいに目覚め、最初はコジケン本ばかり読んでいました。その頃の同人誌は「オールキャラ本」と「東邦本」が多く、どちらも主流はコジケン作品であり、商業誌(○ニパロコミックス等)に掲載されていたC翼パロディもほぼコジケン絡みだったと記憶しています。
それが1年も経つとコジケンスキーは私ひとり。皆カップリング不問となり、手を出すジャンルも拡散しており、「いろいろ読んだけどコジケンは楽しくない」とか言ってアンチ派になる奴まで出る始末です。同人界の主流も別の作品へ移り、コジケンは私の視界から消えていきました。私は不思議でした。なぜこうも急に人の嗜好が変わるのか。自分の周囲だけの現象なのか。流行り廃りはあるだろうけど極端すぎる。
しかし私もやがてコジケンから離れます。結局私も友人たちと変わりませんでした。
〜ヒストリー・オブ・若島津健 その5〜 (80年代予想)
肩のケガが再発してサッカーをやめ、実家にも戻れず(日向と駆け落ちして家を出たため勘当された)、美貌を見初められ金持ちの愛人に。

コジケンは自分の求めるものとは違うと感じたのです。
たまたまかもしれませんが、その頃私が読んでいた同人誌では、若島津はほとんどオンナでした。絵柄や設定の問題ではありません。この場合「恋愛だけで頭がいっぱい」「愛されることが女の価値」みたいな人のことです。また、セックスは崇高な儀式のようで、「愛しすぎるがゆえの狂気」とか「無条件の受容」といった精神性を表現していなければならず、単なる若者の性衝動や日常のエロ行為であることは憚られました。
追求すべきはただ愛のみ。「男同士であること」は二人が乗り越えるべき障害の一つであり、若島津のケガや日向が外国でプロになる話などは二人を引き裂く悲劇。日向の役に立てなくなっただけで自分の存在意義を見失う若島津が、日向に激しく求められてハッピーエンド−−まあそういう話をたくさん読んだのですが、これはヒロインを少年にしただけのメロドラマです。
ボーイズラブが大市場になる前の時代です。少女マンガ的なラブストーリーが好まれたのかもしれませんし、書き手も若くて想像力に限界もあったでしょう。ですが、やはりこういう傾向はコジケンにおいて特に顕著だったと思われます。

それは原作がそういう話だからです。
仮に作者T先生が日向と若島津を使って恋愛物を描くとしましょう。どんな話になるかは明白です。まず若島津が日向に惚れる。日向を助けるためにサッカーを始め、日向を追って東邦に進学し、必死で尽くして優勝に貢献したあと告白し、日向が「そうだったのか。実は俺も…」と受け入れてくれてEND。もちろん若島津の方が受けです。断言してもいい。慕って追いかける方が女。T先生の作品世界で「恋愛」とはそういうものであり、ほとんど例外はありません。しかしこの話、最後の告白がなければ単なる原作のあらすじです。
「中学に入っておとなしくなる」「日向家は貧しく若島津家は名門」「父親の反対を押し切って」などの設定も、若島津のヒロイン性を高め、日向との運命的な恋を示唆するもの。二人はC翼に登場するどの男女のカップルよりもはるか露骨に「男と女」として描かれていました。日向と若島津の話はもともと恋愛物なのです。
この原作公認とすら思える男カップルの存在が、飛躍的に女子同人人口を拡大させたと言っても過言ではないでしょう。若島津は可愛くて髪が長くて言葉遣いが上品、女の子にしても申し分ない。二人の関係はあまりにもわかりやすく、誰の目にもアヤしく、ネタにしやすかった。

しかしまさにそれがコジケンの限界であり、急激な衰退を招く原因となっていくのです。
コジケンを男女の恋愛のパロディとして描くのは簡単です。最初は皆飛びつきますが、原作の舞台を離れ、アフターストーリーなどを真面目に創作しようと思うと、この「原作公認」がかえって不都合になります。
「T先生の恋愛物」という観点から見れば、若島津は早苗ちゃんとほとんど同じです。彼女は翼がブラジルに行ったあと無気力になり、自分が何をしたいのかもわからず、うじうじ悩んだ末やっぱり自分には翼しかないと判断。合格していた短大に進んだ形跡もなく、ユースチームの応援だけして過ごしたのち翼と結婚しますが、セオリー通りに行けば若島津もそんなふうになるはずです。
日向抜きの若島津に未来はない−−中学生編を読んだ読者の多くはそう考えました。そして日向と離れて自暴自棄になったり、卒業後も当然のように同じ道に進んだりするネタが増えるわけですが、それは本当に腐女子にとって楽しい話でしょうか。
同人誌に求められているのは、男と男ならではの物語であり、受けが男であるからこそのエロです。腐女子は愛のみに萌えるにあらず。受け攻めのパターンも多様化していくなか、コジケンはもともと持っていた男女関係の構造を強調し恋愛本位の傾向を深めていったことで、かえって同人界のニーズから大きく外れていったのではないか、少なくとも私や私の友人はそのために離れたのだと、今は思います。
〜ヒストリー・オブ・若島津健 その5〜 (現実)
たのむ残ってくれと追いすがる日向に捨て台詞を吐きユースを離脱。ヘタレ攻×強気受派にとってこれほど都合の良い展開はなかった。

そして時代は移り1994年、ワールドユース編連載開始。
ここで信じられないことが起こります。若島津の方が日向を捨ててチームから出て行くのです。
いったい誰が予想したでしょうか。源三びいきの監督が腹に据えかねたからと言って(それはよーくわかる)、あの素直で従順で健気な健ちゃんが日向さんのお願いを聞かないなんて。必死で止めようとする日向を無視し、勝手な行動をとる若島津。しかもその際日向が打ったタイガーショットを軽くワンハンドキャッチしています。小・中学生編において練習風景ですら一度もなかった「若島津が日向のシュートを止める」という描写から、この場面は「監督(実質的には源三)との確執」よりも「日向との決別」をメインテーマとしていたことがわかります。
この作品では有り得ない事態です。C翼のキャラクターたちは、最初に登場したときの人間関係を変えることがありません。双子はいつまでも双子でしかなく、後輩が先輩を追い抜くことはできず、初恋の相手はそのままフィアンセとなり、明らかに実力差があるにもかかわらず翼VS岬の「禁断の対決」の決着は描かれない。若島津が日向を超えるというのも一種のタブーでした。
けれど人は変わります。いろいろな経験を積み努力を重ねていく中で、自身の夢も他者への評価も変化していく。いつまでもこのままではいられない−−。一人の男として自立するために、明和時代からの主従関係の清算は避けて通れない道でした。順当に成長を遂げたからこそ、二人は決別しなければならなかったのです。

その後若島津は窮地の日向を救うため、通帳と印鑑を持って現れます。
本来なら彼が日向を助けるのは当たり前のことでした。しかし二人はもうチームメイトではありません。自己主張を貫き、今までの関係を壊し、別の道を行くことを決めたうえで若島津は戻ってきました。そして日向の説得に応じユースに復帰するわけですが、復帰第一戦の後にわざわざ握手のシーンが挿入され、二人が和解に至ったことが表現されています。
この若島津のユース離脱から復帰までの一連のエピソードは、作品中で唯一「キャラクターの人間的成長と関係性の変化」が描かれたものだと言えるでしょう。ただ日向が偉くて若島津が従っていれば関係が続くわけではない。時にぶつかり合い、立場や実力が逆転することがあっても、互いに認め合える。チームの枠組みがなくても、同じ進路を選ばなくても、再び手を取り合うことができる。二人は共に成長してきた一番の親友であり、この先何があってもその根本の信頼はゆるがない−−。
もちろん作者にそんな意図はありません。はっきり言って褒めすぎです。全体的には不満の方が多いワールドユース編。以降も断続的に連載は続き、本当に何が起こるかわからず今も頭を痛めている状態ですが、それでも日向抜きの若島津に未来があり、日向に依存せず自立した個人として友情を保っていけると具体的に示されたことは、コジケン派が今後も妄想を続けていくためにも必要だったのだと思わざるを得ません。

三十歳を過ぎた頃、私は再びコジケン界に戻ってきました。
新たに出会ったコジケン作品は、全盛期の頃とはまったく違うものでした。若島津は男らしくなり、サッカー選手としての未来が描かれ、二人は対等であることが強調されるようになっていました。それが続編のおかげだとは思いません。むしろ原作の方が腐女子の煩悩に近づいたのかもしれません。
人生は愛だけではなく、世界は二人のためになく、子供は大人にならねばならない−−そこに私は男×男のおもしろさがあると感じます。そして日向と若島津の関係は昔よりもずっと複雑になって深みを増し、男同士であることがプラスに働くストーリーを妄想しやすくなりました。コジケンは楽しい。やはりコジケンは私の求めていたものだったのです。
これからもコジケンはさまざまな作品を生み出しつつ現役ジャンルとして存続していく、そう私は確信します。きっと私も、もうここから離れることはないでしょう。
(しかし自分で創作するとやっぱり夫婦モノになってしまうのが私の辛いところです。が、漢であって嫁でもあるという矛盾を抱えているのが若島津の魅力であり、彼の「受け」たる所以だったりもするのでどうしようもないのですが…。要するに、普段男らしくしててくれた方がベッドの中でのギャップに萌えるってことですかね。←これだけ長々と論じてきて結論はそんなことか)


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