カップリング研究:小次×健4




二次創作におけるカップリングの成立要件は、主に二つあります。
一つは原作中に萌えネタがあり、そこに描かれている以上の背景や行間を追求することで生じる補完妄想、もう一つは原作での絡みの有無にかかわらず、容姿・性格・境遇・プロフィールデータ等のキャラクター属性を材料に自分好みの組合せを作る錬成妄想で、コジケンに関してはこれまで前者を中心に論じてきました。ほぼ公式と断じていいほど原作自体があやしくツッコミどころ満載だからです。
が、現在は多少考えが変わっております。コジケンがこれほどまでに長く愛され、さまざまな趣味の人を包括している理由はむしろ後者にある。原作エピソードよりも、キャラクターそのものに因るところが大きいのではないかと。
今回のテーマは、原作のストーリー上ほとんど意味を成さず、しかし同人作品にとっては欠かすことのできない「キャラ設定」です。誕生日や家族構成などの些細な要素に宿命の愛のドラマを見出してしまう、腐女子の極端な思考回路を表してみたいと思います。
なお今回は今まで以上に私の主観に偏っており、論文調でまとめるのが憚られる内容であるため、対談形式にしてみました。「内なる自分に問う」イメージです。ここでの回答はあくまで私個人のドリームにすぎませんことをご了解の上、ご覧ください。



脳内問答 「原作設定に隠されたコジケンの真実」

 質問者 : 三木ミキコ(仮名) 客観的思考により真理を追究するリアリスト
 回答者 : 二木ニキコ(仮名) 超反射妄想により現実を粉飾するファンタジスト

見た目ですべては決まっている
 二人の特徴を一言で表すと「対照的」とのことですが、そこにどんな意味があるのでしょうか。
 一目で「違う」と判ることが重要なのよ。異質な者同士がなぜか惹かれあってしまうという愛のミステリーをあの正反対の容姿に見るわけ。たとえば翼と岬が仲良くても何の不思議もないでしょう? もともとサッカー好きで才能があって顔も性格も似たようで、コンビになるべくしてなった感じ。でも日向と若島津の場合、本来出会うはずもない別々の世界にいた二人が、余程の何かがあって離れられなくなってしまった関係という気がするの。
 余程の「何か」とは?
 運命か、カラダの相性。もしくはその両方ね。
 ……。具体的な外見の描写ですが、日向が色黒というのはアニメのみの設定では。
 そこが土田プロの凄さなのよ。日向小次郎という男の本質を、原作者よりも深く理解している。
 夏生まれだし、熱い男のイメージでしょうか。あとは肉体労働による日焼けで、貧しくても逞しく生きてる感じとか。
 そう。そして、それによって若島津の白さが際立つこと。
 若島津が色白という設定はどこにも…。
 白いのよ! 雪のように!! 由緒ある家のお坊ちゃんで夏でも肌を隠している彼が、白くないわけないじゃない。
 あれは肌を隠してるんですか。
 もちろんよ。小学生の頃から長袖長ズボンで、詰襟もきっちり上まで留めてるでしょう。あの「隠す」という行為が、若島津のストイックな性格と育ちの良さ、秘められた肌の白さを表している。常に腕をまくって肌を露出している日向の黒さと対を成しているのよ。
 髪型についてはどうでしょう。若島津の長髪は『K手バカ一代』がモデルという説もありますが。
 それにしては顔が可愛すぎる。完璧女顔で中学では髪もストレートになってるし、見た目も中身も日向の方がずっとワイルドじゃないの。最初は空手使いの異色な選手のつもりで考えたかもしれないけど、日向と組み合わせた時点で無意識に「彼にお似合いの、髪の長い物静かな美人」を投影してしまったのよ。間違いないわ、作者の趣味だから。
 だいたい「悪ガキ×お嬢さん」か「ヤサ男×お転婆」のどっちかですもんね。どうしても赤嶺真紀に納得できないのは、ヨーイチ作品の法則から外れてるせいもあるかも。
 ロングヘアのお姉さん系とショートヘアの妹分が戦ったら、最後はロングが勝つのが三角関係マンガの常識なのにね!
 それって『Mぞん一刻』と『Kまぐれオレンジロード』以外に例があるんですか。
 それだけあれば充分よ。

プロフィールに見る陰陽思想
 誕生日や血液型など、公式データに明記されている情報についてはいかがでしょう。日向=8月17日生まれ、O型。若島津=12月29日生まれ、A型。
 それは相反する性質を持つ二つの気が合わさって万物を創造するという陰陽思想の表れね。
 これだけで!? 突然ものすごい話になりましたが…。陰=女、陽=男という解釈のことでしょうか。
 その設定に何が込められているかが大事なのよ。たとえば几帳面なキャラは大概A型でしょう。私個人としては占いを信じてないし、実際に超大雑把なA型の人もいるわけだけど、架空の人物の場合は後付け設定だから俗説通りにするものじゃない? 男らしいボスキャラはとりあえず獅子座とか射手座にしたり。
 同じ8月生まれでも日向を乙女座にはしないですよね。逆に、作品中にあまり性格描写がない場合、設定から類推してるっていうこともあるんじゃないでしょうか。「本当にそうかどうかよくわかんないけど、A型だから真面目なはず」とか。若島津に関してはそんな気もしますが。
 どっちでもいいんだけど、その設定があることによって付加される要素が、この二人の場合徹底的に逆になってるわけ。たとえば日向は「真夏=色黒・熱血・開放的、獅子座=明朗活発・スター性・気分屋、O型=大雑把・楽天家・リーダー格」、若島津は「真冬=色白・冷静・閉鎖的、山羊座=控えめ・内に秘めた情熱・忍耐強い、A型=几帳面・苦労性・サポート役」とか、そんな感じで見事に日向が陽、若島津が陰のイメージで統一されている。全部偏見だけど。あと、もうひとつ欠かせないのが得意教科。
 音楽と理科? 何か意味あるんでしょうか。確かに若島津=理系=秀才みたいなイメージ作りには貢献してますが。
 日向は芸術系で、あまり深く考えず感性で突っ走るタイプ。若島津は理系で、何事も理詰めで納得するまで考えるタイプということよ。で、頭でいろいろ考えるより、本能に従った方が真実に近づけるってことがあるでしょう?
 秀才の理屈が野生児の暴論に負けたりするケースですね。「四の五の言わずにやりゃいいんだ」みたいな。
 「考えるな、感じろ!」よ(笑)。これもちゃんと陰陽パターンにはまるでしょう。ここで重要なのは、二人の力関係に明確な差はないということ。大/小や正/邪のような、片方が劣るとか間違ってるとかいう「逆」ではないの。ただ質が違うだけ。
 同等の力と正反対の性質を持つ二人が出会うことで、否定でも同化でもない「葛藤」の関係が生まれる。すべての物語はそこから始まると。
 ただ、やっぱり陽の要素の方が強力なのよね。夏の陽射しと冬の雪みたいなもので、別々に存在してる分には対等なんだけど、近づきすぎると太陽は氷を溶かしちゃうのよ。その均衡が崩れる瞬間が攻めと受けとの分かれ道というか、友達のままでいられなくなる所以じゃないかしら。

境遇の妙−−持てる者・持たざる者
 あとは家族構成とか家庭環境ですね。日向は小4の時に父親を亡くしていて、家族は母・本人・弟・妹・弟。かなりの貧困家庭。若島津の家は代々続く空手道場の宗家で、家族は父・母・兄・姉・本人・妹。自宅の描写から相当の資産家と思われます。
 狙ったような巧い設定よね。特に象徴的なのが父親の扱い。ある意味二人とも父親によって人生を決定づけられている。
 父のいない家庭と、父権が強すぎる家庭。いない苦労といる苦労というか…。この場合、若島津の方が完全に分が悪いですね。
 小学生のうちから日向は自分の力で道を切り開こうとしているのに、若島津はサッカーするにも親の許可が要るわけでしょう。いくら空手の修行を積んで強くなっても、箱入り感が否めない。日向に出会うことで自分の甘さに気づいてしまうわけね。
 育ちがいいゆえの引け目ですか。東邦のサッカーにこだわるのも親や家から離れて自分の力だけで勝負したいからかもしれない。
 でも日向にはそれが、自分がどんなに欲しくても得られないものを、若島津がむざむざ手放そうとしてるように見える。だから父親から離反しようとする若島津に「親父さんを大事にしろ」とか言いたいんだけど、よりによってその原因が自分だっていうのが切ないわ。
 母親についてはどうでしょう。日向は母親とのエピソードが多いですし、非常に大事に思ってるようですが。
 それはそうだけど、亡き父に代わって家族を守るという使命を自らに課した時点で、日向は実の母に母性的なものを求めることができなくなってしまったと思う。彼にとって母親とは自分が守るべき弱いもので、甘えたり頼ったりできる相手じゃないでしょう。
 若島津の母はチラッと出てきただけでどういう人かまったくわかりませんが…相撲部屋のおかみさんみたいなものでしょうか。 
 あの総帥の奥さんだものね。古風で控えめだけど芯はしっかりしてて面倒見がよいとか、そんな人じゃないと務まらないんじゃない?
 若島津は裕福な家庭で立派な両親に大切にされて育った子ですよね。それに比べて日向は何もかも失ってる感じ。
 それゆえの飢餓感が日向小次郎の本質よ。日向は生きるために「子供」であることをやめたけれど、大きな欠乏を抱えていて「大人」と呼ぶには不安定。作り上げた兄貴の顔より飢えを満たす欲望が優先してしまう。求め、奪い、貪るのが彼の最大のテーマなのよ。
 大人で兄貴な長男・日向にお坊ちゃんの次男・若島津が心服するという側面もあったと思いますが、なんか騙されてる感じ(笑)。
 騙されてもいいのよ。若島津は何も求めないから。だって、もう全部持ってるもの。そこらへんがお坊ちゃんの強さなの。
 高貴な人間特有の鷹揚さですかね。苦労して得たものじゃないから平気で人に与えられる。で、なくなっても別に気にならない。
 だから若島津の愛は無償なのよ。自分は日向と出会って変われた、それに感謝してて尊敬の念も持ってるから、ひたすら彼に尽くし守ろうとする。ずっと兄貴でいてほしい思いはなく、何をしてもそのまま受け止める。見返りはいらないの。それが日向には母性的な包容力みたいに感じられるんじゃない? 日向は若島津を求めることで心の安定を得、若島津は日向に与えることで人間的に成長するのよ。
 日向のファンとか、普通の女の子には絶対できない役割ですよね。奇跡の組合せでしょう。
 まったくよ。これで恋に落ちないわけがないじゃない。

上下関係の二重構造とSM談義
 二人の家庭環境についてもう少し掘り下げてみましょう。貧しいながらも温かい庶民的な家と、堅苦しい由緒ある良家という見方もできますね。若島津の家は常に緊張感が漂っている武家屋敷みたいで、敬語と正座は欠かせない。
 ほとんど身分の差よね、それは。若島津家がスゴすぎるのよ。和のイメージも強いし、単なる金持ちじゃなくて家柄がいい感じ。
 流派の家元ってのが大きいですよね。よそで空手習ってるだけだったら、若島津の印象も全然違ったでしょう。
 格闘家じゃなくて武道家よね。ただ強いだけではダメで、精神修養が物を言うの。礼儀正しく、誇り高く、潔癖で、ストイックで…みたいな若島津観はそのへんから来てるんじゃないかしら。そして、そういう人間だからこそ若島津は日向に心奪われてしまうのよ。
 お堅いお嬢様が野蛮な男に惚れたりするケースですか。「こんな男、初めてだわ」とか言って。自分にないものに惹かれると。
 そんなところね。コジケンが面白いのは、表向きは日向が主人で若島津が従者なんだけど、その裏に下流の日向が上流の若島津を落とした経緯がある点ね。上下関係が二重構造になっていて、主従物でありながら同時に下剋上物でもあるという。
 それ重要ですね。若島津が部下で、さらに能力や境遇についての劣等感も持ってたりしたら、多分全然違う話になっちゃいますよ。
 恵まれた天才に勝てない苦悩とか嫉妬とかは日向−翼間のテーマじゃない? 若島津はもともと高所にいて得意分野も違うわけだから、日向との間に勝ち負けの意識はないのよ。むしろあるのは落ちていくときの快感。
 若島津はMですか(笑)。
 私の中では(笑)。そうでなければ、あんな破壊神みたいな男とずっと一緒にいられる理由がわからないわ。
 つまり日向に壊されることを若島津自身が望んでいると。なんだかとんでもない話になってきたなあ。
 あくまで無自覚にね。ああいう常に厳しく自分を律している人間は、めちゃめちゃに壊れてみたいという潜在的欲求も強いのよ。そして自分の理性に絶対の自信を持っている人ほど、一旦タガが外れると際限なく乱れていってしまう。
 身分の高い潔癖なお姫様の汚れてみたい願望に似てますかね。貞淑に見えて実は淫乱とか。発想が完全にエロ親父ですが。
 溶かされ、奪われ、破壊され、自己の制御を超えたところに新境地が開けるの。だから自分で自分を解放することはできない。勝手にシールドを破って心に踏み込んでくる外圧が必要なのよ。それが日向。そして虎は貪り食っていい相手を本能で知っている。結局あの二人の関係ってSMなのよ。精神的な意味でだけど。
 結論はそこですか(汗)。いろいろ矛盾してるような気も…。しかしまあ、たった数行のキャラ設定がSM論にまで発展するんだからすごいですよね。まさに萌えの錬.金術。等.価交換どころじゃありませんが。
 これが全部あの作者が何の考えもなしにテキトーに決めたことだって言うんだから腹が立つわ。でも、ある意味天才かもしれないわね、ヨーイチ。


[ブラウザバックでお戻りください]