カップリング研究:小次×健6




せめぎ合う魂 〜 若島津にとっての日向 ・ 妄想編

若島津健は日向小次郎を愛している−−それは、C翼の読者なら多かれ少なかれ感じることでしょう。
日向を追って家を捨て故郷を捨て、仲間を裏切って作った金を日向に貢ぎ、ついにはあれほどこだわっていたGKのポジションすらなげうって日向とツートップを組んでしまった。とても「友情」で片付けられる事態ではありません。
何ゆえそこまで、という根源的な問いに対し、私は別の考察で次のように書いています。すなわち、「若島津が日向を慕うのはDNAによるもの」。原作には若島津の気持ちがほとんど描かれず、理由を断定することができないからです。
しかしながら、この「正解がない」というのがコジケンの素晴らしいところでありまして、明らかな結果だけを提示し「原因は各自妄想してください」という公式からのメッセージと受け取れます。というわけで今回は、「なぜ若島津はこんなに日向のことが好きなのか」というテーマについて考えてみたいと思います。

まず、原作で若島津が日向を慕って東邦に入学した理由として唯一描かれている、入院のシーンを見てみましょう。
二人の出会いや若島津がサッカーを始めた経緯などはいろいろなパターンが考えられますが、ターニングポイントとなったのが若島津の交通事故であったことは間違いありません。
若島津は元々個人競技の選手であり、しかも優秀な武道家です。精神力には自信があり、何か失敗したり試合に負けたりしても冷静に自らを省みることができる、言い訳や後悔はしないタイプでしょう。でもこの時は、全国大会直前に事故に遭うという大失態。自分のせいでチーム全体に迷惑をかけており、責任を取ろうと思っても取れない。それはそれは相当なショックであっただろうと推察されます。
そこへ夕刊の配達を終えた日向が見舞いに来る。終始笑顔で、「またくるぜ」と言って次のバイト先に向かう。この1ページにも満たない挿話から読み取れるのは、ケガで離脱した若島津を気遣い、忙しい中お見舞いに通う日向の優しさです。

日向は、若島津に対しては非常に甘い人物として描かれています。
何失点しようが少しも咎めだてすることなく、いちいちゴールまで駆けつけて励ましたりしている。対戦相手はもちろん、チームメイトに厳しく当たることもある彼としては、驚くほどの気遣いをもって接しています。
早くに父親を亡くし、母親を助けて働き弟妹の世話もしてきた彼は、同年代の子供に比べて遥かに大人であり、責任感が強く面倒見もよい。まっすぐな性格で、不幸な境遇に負けない明るさと、どん底から自力で這い上がる逞しさを備えている。人間的な大きさ、細かいことにこだわらない心の広さ、普段は見せない意外な優しさ−−お坊ちゃん育ちの若島津などチョロいもんでしょう。
自分のミスを笑顔で許してくれた相手に恩と負い目を感じ、尊敬がやがて愛情へと変わり…というのは、やおいでもノーマルでも王道のパターンです。忠誠心か乙女心かはわかりませんが、これを機に日向を慕うようになり、「この人について行きたい」との想いから、東邦行きを決めた−−というのが、まあ自然な見方だと思います(このケースをAとします)。
けれどここで、日向が泣いていたらどうでしょうか。

若島津の事故の際に「日向が泣く」という描写が、同人作品には多く見られます。
これは原作の日向がたびたび泣いていることから頭に浮かぶ話で、腐女子独自の発想というわけではないでしょう。日向は喜怒哀楽の激しい性格で、情緒不安定なところもあり、成長してからも子供のように泣いたり怒ったりすることがあります。
まして事故当時は小学生。父親を亡くし、さらに友人まで失うかもしれない悲劇に耐えられるはずもない。大人びて見えても、そこにいるのは等身大の少年で、甘えられる相手もなく、一人で重荷を背負って苦しんでいる。周りはすべて敵だと心を閉ざし、強気の瞳の奥に深い孤独を湛え、無理を重ねた幼い身体は高熱を発して崩れ落ちる−−。
その日向が、わざわざ見舞いに来て「ケガを治せ」とか言うのです。少しは俺を頼ってくれているのだろうか、強がっていてもこの人には支えが必要なんだ…などと思ったが最後、もう抜けられません。騎士道とも母性とも取れる、「この人は俺が守る」との覚悟のもとに、東邦行きを決めた−−これも納得できる話です(このケースをBとします)。
AとBの日向はまるで別人で、大人と子供ほどの違いがありますが、どちらも原作を基にした彼の真実です。

そして、彼にはさらにもうひとつ顔がある−−もちろん、猛虎・日向小次郎です。
野蛮、傲慢、好戦的、激しい情熱、飢えた獣−−。情け容赦なく、欲望のままに求め、ただ独り勝利を目指して突き進む。おそらくは生い立ちや境遇から形成されたものではない、彼自身の生まれ持った性質だと思われます。
日向は若島津に対して多大な負担をかけ、傷つけるようなこともたくさんしてきました。大事な時に失踪する無責任、チームの勝利よりも翼との勝負を優先した身勝手さ、何の相談もなく退部届を出す無神経、去っていく若島津にタイガーショットをぶつけてくる乱暴狼藉、金を借りる際の偉そうな態度−−それらもすべて原作で描かれている通りです。
これはいささか飛躍した話ですが、若島津は破天荒な野獣という日向の本質そのものに強い魅力を感じており、「この人と離れたくない」という本能的欲求に従って、東邦行きを決めた−−というのが私の妄想です(このケースをCとします)。
〜ヒストリー・オブ・若島津健 その7〜 
デクシニの台詞通りの人生を歩む二人。別にFWやったっていいけど、GKとしてのプライドだけは手放さないでください。お願いします。


ここで本題に戻ります。果たして、なぜ若島津はこんなに日向のことが好きなのか−−。
私はA・B・Cすべてがその答えであり、すべての日向を愛する理由が若島津にはあると考えております。Cについては東邦入学のきっかけとまでは言えませんが、その後の日向との関係を維持するためには欠かせない資質です。
純粋にAの日向に憧れている場合、Cが現れたら幻滅するでしょう。Bに対するようにCを救おうとすると、自己犠牲的になって辛そうです。しかし、C自体を求める心があるならば、どんなに彼の悪い面を見ても、たとえ自分の身が危うくなろうとも、気持ちが揺らぐことはありません。あらゆる災いは自分を成長させてくれる糧になります。
AとBについては前述しましたが、Cに惹かれる理由とは何でしょうか。自分にないものを補うため、正反対の要素を求めるという側面もあるでしょう。けれど獅子にたとえられることもある若島津は、芯からおとなしい人間ではない。彼自身の内に秘めた激しさが同調したか、あるいはそれを上回る力を欲している可能性もあります。いずれにせよ、日向との魂のせめぎ合いは、空手の修行以上に若島津を鍛え、さらなる高みに連れて行ってくれるのかもしれません。
心も、体も、尊厳も、何もかもくれてやる。振り返らなくていい。俺はただ、あんたのすべてを受け止める。−−受けてみせる!

釈迦は提婆達多という悪人がいたおかげで悟りを開くことができたと言われます。
若島津はただ日向の力になるために一緒にいるわけではない。若島津もまた自分のために、日向の存在を必要としている。日向の強さも弱さも、良いところも悪いところも隔てなく認め、ありのままを受け入れることで、若島津は人として大きく成長してゆくのだと思います。
これからも二人は助け合い、時にぶつかり合いながら、共に歩み続けることでしょう。
(今回のお題は「提婆達多」でしたが、裏テーマはここ数年気になっていた「受け目線/攻め目線」だったりします。論点がズレるのではっきり書いてませんが、私の中では一応整理がつきました。とにかく日向は奥の深いキャラだということで…。) 


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