カップリング研究:小次×健 番外編



以下は、2009年発行のオフ本に掲載していただいた考察です。
公式で推しキャラに彼女ができた際の思考回路を表したもので、難局を乗り越え自分に都合の良い理論武装で身を固めていく様が克明に描写されておりますが、まあ早い話「負け犬の遠吠え」と思っていただいて差し支えありません。
原作を否定するような論調で正直な気持ちを書いてしまったため、当時は「ネットには出せないがオフ本なら」と考えて寄稿させていただきました。しかし、コジケニストとして事態をどのように受け止めていたのか、「別に気にしてません」と言うのは簡単ですが実際どうなのか、その本音の部分を面白がってくれる人もいるかと思い、サイトにも掲載することにしました。
10年以上経った今思うのは、私がボロクソにけなしていたイタリアで優男になった日向も、結構コジケン好きの人たちの支持を得ているんではないかということです。案外真紀ちゃんに対しても好意的で、日向さんて優しくてカッコよくて大人よね〜と共感を集めているかもしれません。
何にせよ、考察と銘打っていてもあくまで私の個人的見解ですので、ご了承の上ご覧ください。また、「どんな文脈であれ原作に対する批判は絶対に許されない」という原作絶対主義の方は閲覧をご遠慮くださいませ。


イタリア編総括〜日向滅亡に寄せて(2009年)

「原作のままでもコジケンは成立する」−−それが私の二十数年来の持論でした。
そう思えたのは、今まで特に障害がなかったからでしょうか。日向も若島津も作品中に彼女がいないという腐女子にとって都合のよい状況であったために、好き勝手なことを言っていられただけなのでしょうか。
さて皆さんもご存じかと思いますが、状況は変わりました。最近までYJで連載していた『キャプテン翼海外激闘編 日いづる国のジョカトーレ』(以下イタリア編)において、15年近く放置されていた日向と赤嶺真紀のラブコメがついに進展。初デートの場面が描かれ、一応これで原作公認のカップルになったと考えられます。
前提が変わってしまった以上、私も持論を改めるべきでしょうか。そうしたところで別に影響はありません。どうせ全部妄想。二次創作にとって公式設定は必要条件ではなく、男×男が公式から外れているのも当然のことです。が。
あえて言おう、それでも原作はコジケンであると。

まず日向ファンに問いたい。皆さんは次のような男をどう思いますか?
・誰にでも優しく、マメな性格。後輩を気にかけてメールしたり、女の子の愚痴につきあってあげたりすることがよくある。
・親しみやすいキャラで、目上には可愛がられ、後輩にも気安くされている。
・純情で女性に不慣れ。たわいもない恋話に赤面して後輩にからかわれたことも。恋愛は受身で、押しの強い女に引きずられるタイプ。
・涙もろく繊細で人情話に弱い。ちょっとしたことですぐ泣く。
・遠征用のバッグにお守りの手作りマスコットをぶら下げている。また、そのお守りを握り締めてから試合に臨む。
・試合中に、休暇の予定や女の子とのデートについて考えている。
…まあ、お人好しのヤサ男と言ったところですね。いい人だとは思いますが、日向ファンなら眼中にないタイプでしょう。しかし、まさにこれが最近の連載における日向小次郎なのです。

ここまで来ると小中学生編の彼とは完全なる別人。あの傲慢で野性的な猛虎の姿は微塵も見られません。
「大人になって丸くなった」とかいう次元をはるかに超えています。いまだかつてこの作品の中で、大事な試合の最中に女の顔を思い浮かべていた選手が一人でもいたでしょうか。「試合中によそ見してんじゃねえ」とシュナイダーに言い放った彼とは思えぬ軟派な所業。
さらに許しがたいのがお守りです。ユベントスの開幕戦でも試合前にあの人形を握ってましたが、「今日の試合うまくいきますように」なんて願掛けとかしてたわけ? まったく、そんなことをしているから追い出されるのだと言わせてもらいたい。
日向が成功できたのは、自分の道は自分で切り開く、どんな手を使っても勝利を掴んでみせるという強い意志の賜物でしょう。お願いしたって幸運は向こうからやって来ない。それを一番よく知ってるのが、子供の頃から誰よりも苦労を重ねてきた日向であるはずなのに。

またイタリア編は、セリエC最終戦とソフトの練習試合が同時に進行し、二人の努力の成果や勝負にかける想いなどがシンクロするような構成になっていました。
これは、お互いスポーツ選手であるため「励まし合って共に成長するアスリートカップル」として描かれることになったからでしょう。プライベートだけでなく競技の面でも支え合い、相手の立場を真に理解し共感できる−−そういう関係になるためには、二人が同じレベルに立っていなければなりません。つまり日向のサッカーは女子競技と同等とされたわけです。
女子供どころか他の男子選手にも手が届かないのが日向のサッカーだと思っていました。一試合一試合に命を懸けているような、甘さの全くない格闘技のようなプレー。独り高みにいて、ただ頂点を目指す。わかってもらえなくていい、俺は俺の道を行く−−そういうものと。けれど今や「あいつも頑張ってるから私も」なんて、年下の女の子でも容易に追いつける程度に成り果てました。

何故こんなことになってしまうのか−−それは、イタリア編のメインテーマがラブコメであり、そのラブコメがあくまで赤嶺真紀を主体としたものだからです。
この二人のストーリーは「明るく元気なだけが取り柄の女の子が、分不相応にレベルの高い先輩に憧れ、しつこくアタック。最初は相手にされないが、一生懸命な姿にいつしか先輩も心を動かされ…」みたいな大昔の少女漫画のようなパターンで、完全に主人公は真紀です。日向側の事情は一切考慮されません。
彼女の恋を成就させるためには、日向が彼女のアプローチで落ちるような人物である必要があります。ガキっぽい真紀に合わせてくれる優しさ、お守りをありがたがるような軟弱さが必須。傲慢で野性的な男ではダメなのです。
日向のサッカーが弱体化したのも真紀設定の弊害です。彼女がスポーツ選手でなければ、競技については「女にはわからない世界」とされ、試合とラブコメを一緒くたに描かれるような事態にはならなかったでしょう。

要するに、日向と真紀のカップルを成立させると「日向小次郎」が成り立たなくなるのです。
サイト掲載の考察で述べたように、もともと真紀は日向と合わないタイプであるため、そのままでは二人はうまくいきません。しかし、登場させてしまったからには両想いにせねばならない。そこで、日向の方を真紀と相性が良くなるように変更したのでしょう。
イタリア編の日向は、彼の本来の性格、これまでの人生、プレースタイル等が少しも反映されていない別人としか思えませんが、これは真紀に合わせて捏造されたニセ人格。そして人格改変のみならず、サッカー選手としても著しくレベルを下げられ、今まで築き上げた日向小次郎というキャラクターは崩壊するに至ります。
ラブコメのためにキャラを変える−−これは言い換えれば、小中学生編の彼がそのまま成長した真の日向と、真紀のような女子キャラを恋愛させるのは、作者をもってしても不可能だったということです。

では、真の彼の恋愛とはどんなものか。彼本来の人格であれば、どのようなストーリーが描かれたはずでしょうか。
まず彼の相手は、ありのままの彼を受け止めてくれる人でなければなりません。優しい兄貴だから慕うのではなく、自己中心的で支離滅裂な彼の言動を理解した上でついていける人。有名なスター選手だから憧れるのではなく、貧乏な一個人の彼を助けてあげられる人。表面だけ見て浅い共感を示すのではなく、これまでの苦労や人間的弱さを知り尽くしつつ率直な意見が言える人。彼の都合も考えず一方的に頼ろうとするのではなく、彼が辛い時に励まし癒してくれる人−−そういう相手こそが、孤高のヒール、ワイルドで熱い男に、本当に必要な存在と思われます。
そして、向こうがしつこく言い寄ってくるから受け入れるのではなく、自分から離れようとしても力ずくで引きとめる。欲しいものはどんなことをしてでも手に入れる−−飢えた猛虎と称される男の恋愛とは、そのように激しく能動的なものではないでしょうか。

それはすでに原作の中で描かれています。
相手が誰であるかは明白です。本来の日向がなすべき恋愛ドラマは、若島津との関係を通して描き尽くされてしまいました。そこで異なるタイプの女子キャラをあてがってはみたものの、そのままの日向では話が進展しない。ゆえに彼は人格を変えられ別人と化します。
私はこれを前向きに捉えたいと思います。ニセモノとすりかわることで、本物の彼は守られたのだと。本物の日向は若島津以外の誰ともくっつくことはなかったし、その可能性もなくなりました。言わば、原作がこれからもコジケンであり続けるために、日向は滅亡したのです。
というわけで、真の日向小次郎は腐女子に委ねられました。公式で何が起ころうと気にすることはありません。あれは別人。彼の魂は今も若島津とともにあります。もはや原作で描かれることのない彼の正しい未来・真実の姿は、我々が責任をもって妄想し続けることといたしましょう。
何度でも言おう、やっぱり原作はコジケンであると!


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