いつかこんなことに−−。
突き上げる痛みに耐えながら、若島津は不思議な既視感を覚えた。
逃げようと思えば逃げられた。今だって本気で抵抗すれば、空手家にとって素人の暴力などわけはない。でも、体が動かない。
この感じは−−初めて会った日だ。わけもわからずゴール前に立たされ、シュート練習に付き合わされた日。キャプテンの鋭い目、満面の笑み、強引に引っ張られる自分の腕−−。キャプテンの無理に引きずられながら、俺はそれがとても自然なことのように思えた。
あの頃、どうして俺は、周りの人間はみな敵だと思っていたのだろう。強くなければ生きる価値がないなどと思っていたのだろう。
空手の修行に打ち込みすぎたせいか、単に性格的なものか、理由はよくわからない。
はっきりしているのは、キャプテンだけが他と違ったこと。いや、キャプテンの前でだけ、自分が違うこと−−。
小さな自分。
無力な自分。
汚れた自分。
不安、恐れ、嫌悪、苦痛−−自分自身に対しても隠蔽してきたそれらの感情が、確かに自分の一部であること。キャプテンは、固い殻で幾重にも覆われた、小さな俺を確実に捉える。
キャプテンは俺を裸にし、本当の姿をさらけ出させ、ボロボロになるまで打ちのめし−−同時に、そのまま受容する。
こんなふうになってもおまえはおまえだと。おまえはおまえであるだけで、ここにいてくれるだけでいいんだと。おまえの価値は俺が知ってるから。おまえはおまえの好きなように、生きていてくれればそれでいい、と−−。
本当のところキャプテンがどう思ってるかは知らない。だが、確かに俺はそう感じていた。
キャプテンだけがそう言ってくれると思った。キャプテンに受け入れられて初めて、俺は自分を認めることができた。サッカーを続けたのはキャプテンと一緒にいたかったからだ。サッカーをやめると言えばキャプテンが引き止めてくれることも、一緒に来いと言ってくれることも、多分わかってた。他にどうしようもなかったんだ。
俺は、俺自身を受け入れるためにキャプテンが必要だった。
だから、俺はここにいるんだ。
日向が体を離した。
若島津はぐしゃりとその場にくずれた。乱れた髪が青白い横顔を隠す。大きく見開いた目から涙がこぼれ落ちた。
「どうして抵抗しねえ」
日向は再びベッドに腰掛け、若島津の後ろ姿に向かって言った。
「何か言え。俺を憎いと思うか。呆れて物も言えねえか。それとも俺を憐れんでいやがるのか。…何か言ってくれ。許せねえと、最低だと、何でもいいから言ってくれ若島津!!」
沈黙が続く。日向は頭を抱えて突っ伏している。若島津は座り込んだまま窓を見上げた。ああ、空が青い−−。
「キャプテン…」
ようやく若島津は口を開いた。
「そう、これがあんたの姿だ。あんたは無力な負け犬で、最低な人間だ」
「……」
「でもそれが何だって言うんです。俺は、強いキャプテンに、自分も強くしてもらおうと思って一緒にいるわけじゃない。弱くたって汚くたっていい。あんたはあんたであるだけでいいんだ…。俺はここにいたいから、勝手にここにいるんです。今あんたに俺が必要なら好きなようにすればいい。何だって利用して、やりたいようにやればいいんです。そうやって切り開くしかないんだ…」
「若島津…」
「あんただって、俺に言ったじゃないですか。俺が必要なら俺を使え、一番やりたいことをやりゃあいいって」
「それは…」
「生きててくれたんならそれでいい、って」
日向は若島津の首筋に指を伸ばした。ひとつひとつ確かめるように、指は首筋を、髪を、頬を伝い、最後に唇をなぞった。日向はかがみこんで若島津にキスした。そして正面から深く抱きしめ、大きく息を吐いた。
若島津が目を覚ましたとき、すでに日向の姿はなかった。
カーテンを開け放したままの窓から朝の光が射し込んでいる。脇の椅子の背に昨晩脱ぎ散らした衣類が丁寧にかけられている。若島津はしばらくぼんやりしていたが、やがて机の上のメモに気がついた。
それには下手な、だが几帳面な字でこう書かれていた。
「若島津へ オキナワへ行く あとはたのむ 日向小次郎」
若島津はそれを読んで笑った。
キャプテンは、吉良監督のいる沖縄へ行ったのだ。そこで一から自分を鍛え直す決心がようやくついたのだろう。翼との勝負から一旦離れ、翼との比較でない自分の本当の弱さを見つめることができたのだろう。
そうだ、キャプテン。あんたはもっともっと強くなる。強くなってここへ帰ってくる。俺は信じてる。あんたを信じてるんじゃない。俺は、俺の運の強さを信じているんだ。
今度優勝できなかったらサッカーをやめる−−父さんとの約束に迷いはない。これで優勝を逃したら、これ以上サッカーを続けたって仕方ないということだ。でも、そうはさせない。
たとえあんたが本大会までに戻らなくても、俺は勝ち続ける。必ず決勝までゴールを守り抜く。あんたは決勝には必ず出場する。そして、今度こそ、俺たちは優勝する。
若島津は窓を大きく開き、部屋に風を入れた。いつのまにか、窓の外は本当の青空に変わっていた。