日向さんとキスしたことがある。
東邦に入学して半年くらい経った頃、たしか秋の新人戦がはじまる少し前だ。
夜中、うめき声に起こされたんだ。隣のベッドを見ると日向さんが苦しそうにうなされている。具合でも悪いのかと心配になり、そばへ行って声をかけた。
「日向さん大丈夫ですか? 日向さん」
パッと日向さんの目があいた。日向さんは少しのあいだ不思議そうな顔で俺を眺めていたが、やがて上体を起こし、ゆっくりと腕をのばした。
指が俺の顔に触れる。触れたと思うとすぐ引っ込める。日向さんはそんなことを何度も繰り返した。指は俺の額からこめかみへ、頬から顎へ、ひとつひとつ確かめるように輪郭をなぞった。何も言わず、頼りない手つきで、ひどく不安そうな目をして。
こんな顔初めて見た。いつもの日向さんからは想像もつかない。何だか別人みたいだ。
そうしてぼんやり考えていると、いきなり口を塞がれた。
一瞬何が起こったのかわからなかった。
いつのまにか日向さんの腕は俺の背中をきつく締めつけている。何が何だかわからず、俺はただ呆然とされるがままになっていた。
舌を入れられてようやく事態を悟った。ちょっと待て。なんだこれは。なんでこんなことになってるんだ。
俺はいま日向さんとキスしている−−そう思うと頭が爆発しそうだった。どうしよう、どうしよう。逃れようともがけばもがくほど、金縛りにあったように体が動かない。苦しい。息ができない。俺はパニックを起こしていた。もうダメだ。
ついに意識が遠のきそうになったとき、日向さんが唇を離した。そしてまっすぐ俺の目を見て言った。
「若島津」
それから日向さんはもう一度俺をぎゅうっと抱きしめ、満足したようにニコッと笑うと、むこうを向いてさっさと寝てしまった。
なんだったんだいったい。
ひとり残された俺はその場にへたり込み、しばらく動けなかった。
なんとか気を取り直して自分のベッドに戻ったものの、とてもじゃないが寝つけない。頭が混乱しているだけならまだよかったと思う。
「…嘘だろ、おい…」
俺は自分の下半身の異変に愕然とした。どうしようもなくてトイレに駆け込んだが、1回抜いたくらいで収まる状態じゃない。
鎮まれ、鎮まってくれ。頭からふとんをかぶり体を縮め必死で目をつぶるが、どうにも腰が落ち着かない。すり合わせた腿の内側が火照り、激しく脈打っている。
日向さんの体は熱かった。押しつけられた胸から直に鼓動が伝わった。口内をかきまわす舌の、首筋を伝う指の、背中を這いまわる手のひらの感触がどうしても消えない。何も考えずに眠ろうとすればするほど、体の感覚ばかりが高まっていく。
なんで。どうして。自分の体とは思えない。心臓が下の方にあるみたいだ。全身の血が逆流して一ヵ所に集中する。やめたいのにやめられない。俺はこらえきれず再び下腹部に手をのばした。
どうしちゃったんだ俺。
カラダが、熱い。
声を殺すのがやっとだった。
翌朝ベッドに突っ伏して熟睡しているところを揺り起こされた。
他人に起こされるまで目が覚めないなんて初めてだった。疲れ果て鉛のように重たい体をなんとか起こし、目をこすりながら顔を上げると、いきなり視界に日向さんの大アップ。
「若島津」
突然ぶわっと昨夜の記憶がよみがえる。慌てて飛び起き壁際に後ずさったが、日向さんは平然と言う。
「何やってんだおまえ」
日向さんは夜中の出来事をまったく覚えていなかった。
それを聞いて俺も一瞬「あれは夢だったのかもしれない」と安心しかけた。が、何気なくベッドの脇に目をやり思わず戦慄。
「!」
ゴミ箱から溢れんばかりのティッシュペーパーが、自分のした浅ましい行為を露骨に物語っていた。
ゆ、夢じゃなかった…。
あまりのことに目の前が真っ暗になった。もう否定のしようもない。俺は動揺を隠してゴミ箱をベッドの下に足で押しやり、逃げるように部屋を出た。