気まずい。
ろくに顔も見られない。部屋にいると息が詰まりそうだ。
二人とも口数の少ない方で、用がなければ黙っている。これまで何とも思わなかったのに、今はひどく沈黙が重い。
「若島津」
「は…はいっ。な、なんですかっ」
何をうろたえているんだ俺は。
「俺もう寝るわ。電気はおまえが寝るときに消せばいいぞ」
「はいっ。…いえあの、す、すいません。もももう寝ますっ」
だめだ、口がまわっていない。日向さんが怪訝な顔で何か言いかけたが、無視して俺は部屋の電気を消し、急いでふとんをかぶった。
はあ…。
もう1週間もこの調子だ。朝から晩まで気の休まるときがない。
横になってからが一層苦行だった。疲れてるのに眠れない。思い出すたび体が疼く。なんとか頭をカラにして寝つくことに成功しても、今度は夢に日向さんが出てくる。
ドツボだった。寝ても起きても変わらない。無理矢理押さえつけられ唇を塞がれ体じゅうをなでまわされ、浅ましく欲情している俺がいる。邪念を振り払おうと躍起になればなるほど魔物の術中に落ちてゆく修行僧の気分だ。
俺は自分で自分の体をまったくコントロールできないことに深くショックを受けた。
もともと俺はそのテの話に縁がなかった。自分でしたこともあるにはあるが、単なる生理現象くらいに思ってたし、別に大したものでもない。異性についての話題にも興味がなく、話を振ってくる奴もいなかった。
そんなことにつきあう暇はないし、煩悩に振りまわされるのはバカバカしい。勝負事で結果を出すには日頃からの精神修養が重要だ。常に己を厳しく律し、心の平静を保つよう心がけていれば、余計な雑念にとらわれることはないはずだ。そう思っていた。
なのに、何なんだこれは。俺はこんなに雑念だらけの人間だったのか。
イヤでも反芻してしまうカラダの記憶。その余韻で全身が熱く高まりきったなかでイクのは絶望的なほど気持ちよかった。ただ抜くのとは全然違う、などと妙なことに感心したりした。
体の快感とはこんなにもあらがえないものなのか。それとも俺が未熟だからか。知らなかったから今まで平気でいられただけなのか。「修行が足りん!」 脳内で父さんの怒号が響く。
だあっ! どうして俺がこんなに悩まなきゃいけないんだ!!
元はと言えば日向さんが悪いんだぞ! いったい何だっていうんだ! いくら寝ぼけてたからってあんなことするか普通!? あんなことっ…。
あんな…。
…結局あれは何だったんだろう。単に寝ぼけて好きな女の子とでも間違えたのか。日向さんでもそんな夢見るんだろうか。全然想像つかない。考えてみれば俺は日向さんともそういうプライベートな話をしたことがない。サッカー以外の話題はほとんどなかった。
日向さんのことなんか全部わかってると思ってた。改まって話さなくたって、単純で正直で隠し事の下手な人だ。毎日毎日一緒にいて、知らないことなんてあるはずもないと。でも、もう何もわからない。
はあ…。
無念無想の境地には程遠い。
新人戦の出来は最悪だった。
結果的には東邦の優勝。だが中学での公式デビュー戦であるその初戦、俺はいきなり2失点した。
自分でもビックリした。相手とはかなりの実力差があり、点を取られそうな気もしなかった。格下と思って油断したわけじゃない。単にこっちの守備がボロボロだった。要するに俺がダメだったんだ。
代替わりしたばかりのチームの中で1年生は俺と日向さんだけ。すでに夏の全国大会を経験している日向さんはともかく、俺の起用については異論も多かったらしい。大会直前に急にスタメンに選ばれたため、実戦経験が少ないとかチーム練習が足りないとか主力の2年生との連係がなってないとか。実際うまく機能しなかったからその通りなんだろう。でも、本当の理由は別にあった。
どうしても試合に集中できなかった。精神の乱れがプレーに影響しているのが自分でもよくわかった。
2戦目以降はなんとか立て直し決勝まで無失点で抑えたが、危ない場面も多かった。とてもほめられた内容じゃない。最後は5−1の大差で優勝したが、北詰監督はその失点1が気に入らなかったようだ。「点の取られ方が悪い」と試合後のミーティングで注意されたうえ、学校に戻ってからも俺一人だけ監督室に呼ばれてさんざん説教された。
何を言われても仕方がない。周囲の反対を押し切って抜擢した選手が期待通りの活躍をしなかったんだ。そりゃあ腹も立つだろう。まだレギュラーと決まったわけじゃないんだからな、と監督は締めくくった。
監督室を出ると、ドアの横に日向さんが立っていた。
「何を言われた」
大会から帰ってきたときのままの格好だった。ずっとここにいたんだろうか。
「まあ、何言われてもしょうがないですね」
「調子悪いみたいだな」
「……」
「連係の問題じゃねえな。おまえの動きがよくない」
「わかってます」
「どうかしたのか?」
「あんたのせいだ」
−−なんて言えるわけもない。いや、実際日向さんのせいじゃないんだ。原因がなんであれ、些細なことに必要以上に動揺して、いつまでも克服できないでいる俺が悪い。
「何でもありません。すみませんでした」
「若島津」
日向さんは俺の顔を覗き込むようにして言った。
「地区予選レベルの結果をいちいち気にするな。あくまで目標は全国制覇だ。そこにピークを持ってかなきゃ意味がねえ」
「はい」
「おまえよりうまいキーパーはいないんだ。全国にだっていなかった。おまえがいれば勝てる。俺たちのチームが負けるわけがない」
「……」
「いいか、東邦のキーパーはおまえなんだ。頼んだぞ、若島津」
そう言って日向さんは俺の肩をポンとたたいた。そのいかにも真面目くさった口調に、俺はつい笑ってしまった。
「あんたが決めることじゃないでしょ」
「うるせえな、とにかくわかったな!」
かなわないなあ、と思う。
この人なりに俺を励ましてくれているのだろう。自己中心的なようでいて、他人のこともちゃんと見ている。別に落ち込んでいるつもりはなかったけど、なんだか気が晴れたみたいだ。
悩んだってどうにもならない。日向さんは日向さんだ。日向さんが本当のところ何を考えていようと、どのみち俺には関係がない。俺たちはただ一緒にサッカーをするだけだ。俺がここにいる理由はひとつしかない。
「若島津、来年は絶対優勝するぞ!」