8日間の合宿を終え、日向たちは一旦東邦に戻った。
夕食を済ませ、部屋に荷物を置いたところまではいいが、その後風呂へ行くと言ったきり若島津の姿が見えない。
またか。
結局あの日、若島津は部屋に帰ってこなかった。翌朝出発ギリギリの時間に何食わぬ顔で荷物を取りに戻り、そのまま合宿に参加して今に至っている。
あいつは今日も戻ってこないだろう。今日明日をしのげば後はヨーロッパだ。ユースの合宿で同室になることはないし、遠征が始まれば余計なことは考えない。時が経てば何とかなるとでも思ってるんだろう。
だが若島津はその日のうちに戻ってきた。
消灯時間をだいぶ過ぎた頃、部屋のドアが開いた。
「よお」
「……」
若島津は中に入ると、壁際に佇んだまま冴えない顔で言った。
「すみませんでした…」
「どこ行ってた」
「タケシんとこ…」
「この間もか」
「はい…同室の奴、帰省してるって聞いてましたから…」
「タケシならさっき風呂の前で会ったぞ」
「聞きました。さっき日向さんに会いましたけど僕何も言ってません、って言われました…」
「何か話したのか?」
「何も…」
「なるほどな」
日向は起き上がってベッドに腰掛けた。
「おまえもナメられたもんだな」
「……」
「それで情けなくなって戻ってきた、と」
「……」
「せっかく平静を装ったつもりがタケシなんかに見破られて悔しいんだろ」
「…そこまでわかってるならいちいち言わんでください…」
若島津は落ち着かない様子で視線を泳がせていた。大きな瞳が上に、下に。左に、右に。やがてくるっと背を向け、壁に向かって言った。
「なんでずっと見てるんです…?」
「あ、悪い。つい…」
若島津は肩を落とし、壁に額をくっつけてうなだれている。そして深くため息をついたかと思うと、いきなり拳で壁を殴りつけた。
「…くそっ!!」
日向は驚いて言った。
「おい、何だよ。おまえがやったら壁に穴が開くぞ」
「す…すいません…」
若島津は再び壁を向いたまま黙り込んだ。やがて、絞り出すような声で話し始めた。
「そうだ…あんたはいつだって答えを知ってるんだ…。俺の目に見えないものがあんたには見えてる。俺がどんなにあがいても、あんたの方が正しいんだ…」
「……」
「わかってるんですよ俺だって。俺にあんたが必要なことくらいわかってるんです。ただ一緒にいられるだけでよかった。一緒にいられればそれでいいと…、それ以上のことは考えちゃいけなかった。それをあんたは」
「……」
「…そうです、おれはあんたから逃げました。まさか自分がこんなふうになるなんて知らなかったんです。自分が自分でなくなるような気がして怖かった。感情なんかいくらでもコントロールできると思ってたのに」
「若島津」
「あんたのせいで俺はめちゃくちゃだ。…こんなの俺じゃない。俺はこんなじゃなかった。どうして目をそらせない? どうして嫌だと思えない? 頭ではきちんと線を引いてるつもりなのに、どうしてこんなに自分が思い通りにならない…」
「若島津、何が言いたい。はっきり言え」
「俺は…」
若島津は勢いよく振り返った。そして思いきり日向をにらみつけ、怒ったような声で言った。
「あんたが、好きだ」
次の瞬間、若島津の顔がぐしゃっと崩れた。
日向は息をのんだ。泣き出すかと思ったのだ。
だが若島津は、糸が切れたように床にしゃがみこみ、声を上げて、笑い出したのである。
「ど…どうした」
「す、すいません、言うだけ言ったら気がゆるんで…」
若島津は何度も目をこすった。
「なんだ、こんなに簡単なことだったのかと…。なんで今まで言えないと思ってたんでしょうね…」
そう言うと、若島津は膝を抱えて顔を伏せた。
たったそれだけのことが、若島津にとっては大仕事だったのだろう。日向にはそれがわかった。日向は並んで腰を下ろし、若島津のふるえる肩をつかんで抱き寄せた。
「キャプテン、俺…」
「もういい、充分だ」
夜が更けてゆく。
若島津は日向にもたれ、泣きながら笑っている。
こんな姿は他の誰も、若島津自身でさえ知らなかったに違いない。
だが俺はこいつを知っていた。多分初めて会ったときから知っていた。若島津がここにいる。俺はずっと、こいつに会いたかったのかもしれない。
日向は若島津の頭を撫でながら、ぼんやりそう思った。