surviving child (1)



scene 1 若島津

 そのとき彼は床屋に向かっていた。
 ついに父親が怒り出したのである。「礼と紛らわしい! 切ってこい!!」
 二つ上の姉・礼とは双子かと訊かれるほどよく似ている。共に父の道場で空手を習っているが、この頃は背格好も同じようで、道着を着ていると父親でも見間違う。せめて髪型を変えろ、ということだ。
 別に好きで伸ばしてるわけじゃない。彼は白い首筋にまとわりつく髪を手で払った。大会があったから床屋に行く時間がなかったんじゃないか。時には学校も休んで稽古していたんだ。床屋なんか行くひまあるか。
 ふと顔を上げると向こうから見覚えのある婦人が来る。道場に空手を習いに来ている女児の母親で、いつも彼を姉と間違えて話しかけるおばさんだ。
 気づかれないように通り過ぎよう、と下を向いた瞬間だった。
 「あぶねえっ!!」
 誰かが叫んだ。同時に、背後から何かがものすごい勢いで迫ってくる気配。顔を上げる。おばさんがあぶない。
 ほんの一瞬の出来事だった。それがサッカーボールだと気づくより早く、彼は駆け出し、前方に飛んだ。
 「きゃあっ」
 ボールではなく、彼の突然の出現に驚いたようだった。彼は振り向きざま、右拳で思いきりボールをはじいた。手首に痺れるような痛みが走る。
 「あら」
 ようやく事態を悟ったらしく、婦人は転がってゆくボールと彼とを交互に見ながら言った。
 「若堂流さんのお嬢さんだったの。ありがとう、助けてくれたのねえ」
 「弟です」
 「あら。いつもごめんなさいね。弟さん、今年の大会も優勝なさったんですって? 偉いわねえ」
 手首の痛みにしばらくぼんやりしていたが、はっと我に返り、婦人を適当にやり過ごして彼は再び歩き出そうとした。

 「おい待て!」
 振り返ると、少年がこちらを睨んでいる。
 浅黒い肌に鋭い目が印象的だった。年は彼と同じくらい、小学5〜6年生か。右足でサッカーボールを踏んづけている。
 「あんたの仕業か」
 彼は少年に向かって言った。
 「グランドじゃないんだ。気をつけた方がいい」
 「あ…。すみませんでした」
 少年は婦人に気づいて頭を下げた。が、またすぐに彼の方に向き直った。
 「おまえ、キーパーか」
 「は?」
 「キーパーやってるやつかって訊いてんだよ!」
 ものすごく尊大な態度だが、不思議と嫌な感じはしない。
 「サッカーの?」
 「そうだ」
 「やったことないけど」
 いつのまにか婦人はいなくなっていた。よく見ると少年は新聞の束を抱えている。配達の途中じゃないのか。
 「…おまえ、これからちょっとつきあわねえか」
 「は?」
 「もうすぐ配達終わるから。一緒に来い」
 「いや俺は床屋に」
 「床屋なんかいいじゃねえか。もっと長い方が迫力あっていいぞ。髪を振り乱して相手チームを威嚇するんだ。とにかく来いっ。すげーんだよ、おまえ。おまえみたいなやつ、今まで見たことねえ!」
 少年は彼の手首をつかんで走り出した。喜色満面、鋭い目がきらきらと輝いている。彼は引っ張られるままに、一緒に走った。
 「名前、何てんだ」
 「若島津健」
 「変わった名前だな。年いくつだ」
 「10歳」
 「そうか。1コ下だな。俺は日向小次郎。明和FCでサッカーやってる」

 日向は同一町内に住んでいるが小学校は別で、若島津の家の方へは新聞配達でしか来ないという。どんなときもサッカーボールを離さず、配達のときもドリブルをしているが、この日はむしゃくしゃしていてつい思いっきり蹴ってしまった。電柱に当たると思ったが、電柱の陰からおばさんが出てきて慌てた。すると前を歩ってたやつが信じられないスピードで追いつき、片手でボールをはたき落としたのだ。
 「俺のシュートを片手で止めたのもすごいが、それより突然のシュートに反応してあんな遠くから追いつくのが信じられねえ」
 日向は嬉しそうに続けた。
 「この夏の大会もいいところまで行ったんだが、うちのチームは守りが弱くてな。俺が何点決めても、それ以上に点取られちまう。それで、どっかにうまいキーパーがいないか、ずっと探してたんだ」

   結局この日、若島津は床屋に行けなかった。新聞配達のあと、近くの学校にもぐりこみ、真っ暗になるまで日向のシュート練習につきあった。
 …調子が狂う。
 なにがなんだかわからない。日向のペースにのみこまれる。俺はいったい何をやっているんだ。
 周りのやつはみんな敵だ。常に勝負の主導権を取り、厳しい目で威圧する。どんな相手も気迫で打ち負かす。それが俺だ。なのに。
 「若島津! あと10本、行くぜ!」
 「は…はいっ、日向さん!」
 床屋には行けず、空手の稽古もサボり、夕飯の時間はとっくに過ぎている。帰ったら大目玉だ。
 しかし若島津は爽快だった。シュートを受けるたび、心の中で晴れ間が広がる気がした。辺りは真っ暗だったが見上げた空を明るいと、若島津は思った。



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