surviving child (3)



scene 3 若島津

 ここはどこだ。
 若島津は目を開けた。眠っていたらしい。ぼんやりと視界に入るのは、見慣れない白い天井と、心配そうにのぞきこむ母の顔。
 「健、気がついたの」
 「母さん、ここは…」
 起き上がろうとした拍子に、左肩に激痛が走る。
 「痛っ…」
 「健、動かないで。覚えてないの。おまえ、トラックにはねられたのよ。でもね、肩と脚の骨折だけで済んだの。他は異常ないって」
 一瞬、何を言われているのかわからなかった。
 「ひと月くらい入院が必要だそうよ。それからおまえが助けた小犬は無事よ。さっき飼い主の方が謝りにみえたわ」
 そうだ。練習の帰り途、車道に犬が飛び出したのを見たんだ。前からトラックが来ていた。
 これは夢か。夢なら早く覚めてくれ。絶望的な思いが頭の中をぐるぐるまわる。練習はどうするんだ…今度の日曜は練習試合が…いや、そんなことより、全国大会が3ヶ月後に迫っているんだ!
 バタバタと派手な足音がして、いきなり病室のドアが大きく開いた。若島津は息をのんだ。日向だった。
 「若島津…!」
 「キャプテン…」
 お互いを凝視したまま沈黙が続く。やがて若島津の目に涙が溢れた。
 「すみません、キャプテン…!」
 「若島津」
 「こ…こんな…こんな大事なときに俺…。優勝するって約束したのに…事故なんか…。大会…大会に出なきゃいけないのに俺…バカな…こんなバカな…」
 若島津は混乱していた。自分が何を言っているのかもわからない。泣いたことなんかなかった。辛いとか苦しいとか言うのは弱い人間だ。泣いたって無駄だ。なのに、なぜ涙が止まらないんだ。
 「ばかやろうっ!!」
 日向が声を荒げた。
 「俺はそんな話を聞きにきたんじゃねえっ!」
 「キャ…キャプテン…」
 「生きてて…生きててくれたんならそれでいいんだよっ!!」
 そのまま日向は駆け出していった。若島津は涙を止めることもできず、呆然とドアの方を見つめていた。母親が何か声をかけたが、若島津には何も聞こえていなかった。
 翌日、日向は再び病室に現れた。
 「よお」
 若島津は慌てて上半身を起こした。日向は入口で立ち止まり、目を床に落としたまま言った。
 「昨日は悪かったな」
 「いえ、あの…」
 「父ちゃんのこと思い出して、怖くなったんだ。父ちゃんも事故で、即死だった。おまえが事故に遭ったって聞いて、なんでおまえまでってすげー頭にきて、それから怖くなった」
 「……」
 「それでついカッとなっちまって。何しに来たんだかわからねえな」
 「いえ、俺がわけのわかんないこと言ったから…すみません、あんなみっともないとこ…」
 「そんなこと、ねえ」
 日向は顔を上げた。そのまっすぐな瞳に射すくめられ、若島津は口をつぐんだ。
 日向はベッド脇の窓辺に移動し、少しのあいだ外を見ていた。
 「医者は何て言ってるんだ」
 「全治2ヶ月。激しい運動は3ヶ月は控えたほうがいいって…」
 「3ヶ月か」
 日向は空を見上げて言った。
 「決勝には間に合うな」
 「キャプテン!」
 振り返って、日向は続けた。
 「若島津、おまえが入ってから明和FCは守りの方も強くなった。かなり上の方まで楽に勝ち進むだろう。だが、おまえ抜きで優勝できるほど簡単だとも思っちゃいねえ」
 「……」
 「俺は必ず決勝まで勝ち上がる。俺は信じてる。決勝のゴールを守るのはおまえだ、若島津。そして俺たちは優勝する」

 −−その日、若島津はまだ暗いうちに家を出た。
 ケガは治ったが、急に無理をすると後遺症が残る可能性もあると医者は言う。何より、父親が出場を許可していない。勝手に出かけることを警戒され、こづかいも取り上げられていた。構うもんか。東京なら歩いてだって行けるんだ。
 キャプテンは、俺が来るのを信じてると言った。俺を信じているんじゃない。キャプテンは自分自身の運の強さを信じているんだ。
 俺も同じ。俺はキャプテンと出会った俺の運命を信じる。
 俺は自分を強い人間だと思っていた。だがそれは、自分で作った強さを表面に貼り付けていたに過ぎない。弱い感情は自分にはないものと、その存在を否定していた。自ら敵を作り、それを圧倒することで自分の力を確かめたかった。俺は誰にも、自分自身にさえ、心を開いていなかった。
 キャプテンはその殻を破った。俺自身も知らなかった心の隙を突いた。キャプテンは言った。生きててくれればそれでいい、と。俺は泣いたり、わめいたり、苦しんだり、くやしがったりする人間で、−−だからこそ、俺は本当に強くなれる。
 夜が明ける。人けのない交差点で、若島津は荷物を下ろし、昇る太陽を見ていた。日向の言葉通り、明和FCは全国大会を順当に勝ち進み、ついに準決勝の朝を迎えたのである。対戦相手は北海道代表・ふらの。
 「待ってろよ、キャプテン」
 若島津は白いキャップを目深にかぶり、再びジムバッグを背負って歩き出した。



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