surviving child (4)



scene 4 日向

 「やめた?」
 日向は耳を疑った。若島津がサッカーをやめたという。
 「キャプテン、知らなかったのか?」
 沢木が不思議そうに問い返す。もう1週間も前に、吉良監督に意思を伝えに来たという。
 「ま、大会終わったから、どうせみんな代替わりだけどな。中学に入るまで非公式にでも続けようぜって声かけたけど、若島津は中学ではサッカーやらないからいいって」
 「なんで…」
 「あいつ、家の人に黙って大会に出たみたいで、親父さん怒り狂って大変みたいだぜ。今年は空手の大会にも出てないしさ。しばらく空手に専念するんじゃないの」
 明和FCは全国大会決勝で大空翼率いる南葛SCに敗れ、準優勝に終わった。
 日向は大会終了後、サッカーの名門・東邦学園にスカウトされ、特待生として入学することを決めた。ここのところ学校の説明会や見学、入学手続等で忙しく、クラブに顔を出したのは2週間ぶりだった。若島津にもしばらく会っていない。
 沢木の話を聞くと、日向はそのまま若島津の家に向かった。
 どういうことだ。日向は納得がいかなかった。尋常ならざる練習量でたちまちトップレベルのキーパーとなった若島津、大ケガを克服して全国大会に出場した若島津が、簡単にサッカーをやめてしまうとはどうしても信じられない。

 若堂流空手道場。
 日向は息をのんだ。でかい家だ。敷地の中へ入るのは初めてだった。門をくぐるとまず道場がある。母屋はその奥らしい。日向は道場をのぞいてみた。
 稽古のない日なのか、道場は静かだった。入口の木戸の鍵はかかっていない。そっと開けると、ひとり無心に稽古に打ち込む若島津の姿があった。
 声をかけるのが憚られ、日向はしばらく若島津の動きに見入っていた。集中しているためか、若島津はまったく気に留めず、そのまま稽古を続けた。
 やがて一段落したのか、若島津は隅の方へタオルを取りにいった。額の汗を拭い、手のひらで扇ぐような動作をしたあと、道着から肩を出し、諸肌脱ぎになって突然日向の方へ向き直った。
 若島津は晒しを巻いていた。晒しをぐるぐる巻きにして押さえつけている、それは…胸?
 「若島津っっ!!」
 日向はアゴが外れるほどの大声で叫んだ。
 「おっ…おまえ…それ…なんで…胸……?」
 若島津はきょとんとしていたが、やがて満面の笑みを浮かべ、日向を指差して言った。
 「日向小次郎!」
 「へっ?」
 そして道場の入口で固まっている日向を押しのけ、外へ向かって声を張り上げた。
 「健ちゃーん! キャプテンが来たよー!!」
 日向が恐る恐る後ろを向くと、そこにもう一人若島津が現れた。
 「わっ若島津」
 「何やってんですキャプテン、こんなところで」
 この若島津は白いキャップ、長袖Tシャツにトレパンの、見慣れた姿だった。
 「おまえ、双子だったのか?」
 「ちがいます。それは姉の礼。二つ上です。…姉さん、そんな格好でうろうろしないでくれよ」
 はーい、と言って若島津と同じ顔の姉は道場の奥へ引っ込んだ。
 「驚いたぜ…」
 「ところでどうしたんですか、キャプテン」
 「あ…ああ」
 日向は気を取り直して言った。
 「わかってんだろ。おまえがサッカーをやめたって話だ」
 「…でしょうね」
 「なぜだ。おまえはすごいキーパーなんだぞ。なぜ簡単にやめるなんて言える」
 若島津は空を仰いだ。そして、ひとつひとつ言葉を選ぶように話しはじめた。
 「…俺は、自分を強い人間だと思ってきた。強くなければ、生きてる価値がないと思ってた」
 「若島津…」
 「でも、あんたに会ってから、自分がよく見えるようになった。結局俺は、自分の弱さを見ないようにしてただけだった。あんたといると、俺は弱い人間で、だからこそ強くなれるんだと、思えた。だから、あんたと優勝を目指した。あんたと、優勝したかった」
 「……」
 「ケガをしたり、いろいろあったけど、後悔はない。俺は全力で戦って負けた。負けて、くやしかった。当然だ。俺はそのくやしさを受け入れることができた。俺の信じたことは正しかったと思った。俺はただ、サッカーとか、空手とかを超えて、強くなりたかっただけなんだ」

 一瞬ざあっと強い風が吹いた。若島津の帽子が吹き飛び、長い髪があおられる。
 日向は帽子を拾い上げて言った。
 「だったらおまえも東邦に入ったらいいじゃねえか」
 「はっ?」
 「要は俺と一緒にいて良かった、ってことだろ?」
 若島津は真っ赤になって首を振った。
 「いっ…いや別にそういう意味じゃ…」
 「そーゆーふうにしか聞こえねえ。一人で空手やってるより、俺とサッカーやる方が強くなれるんなら何でやめる。おまえが強くなるのに俺が必要なら俺を使え」
 「でもそれじゃあんたに迷惑…」
 「勝手に決めんな! おまえは自分の一番やりたいことをやりゃあいいんだよ! だいたい、それが俺の望みと同じだったらどうするんだ!!」
 「え…」
 「忘れんな。俺たちはまだ優勝してないんだぜ、若島津」

 若島津は何も言わず立ち尽くしている。日向は若島津に帽子をかぶせ、下から顔を覗き込んだ。

 そのとき日向はふいに視線を感じて振り返った。道場の戸の陰から、奥へ引っ込んだはずの若島津の姉が小さく手を振っていた。
 「…じゃ、今日はこれで帰るからよ。クラブにも顔出せよ」
 「あ、一緒に行きます。ちょうど出かけるとこだったんで」
 若島津は慌てて後を追った。
 「どこ行くんだ」
 「床屋です」
 「なにいっ!」
 初めて会ったとき首のつけ根あたりだった髪は、今や完全に肩を越す長さとなっていた。
 「姉さんと紛らわしいって親がうるさいんですよ。それに、もうゴール前で相手を威嚇することもないかと思ったんですが」
 「ばかっ、そういうことなら切るなっ。そんなヒマあったらシュート練習でもしてろ」
 「でもいいかげん前髪長くてジャマになってきたし…」
 「前髪なんか俺が切ってやる!」
 「ええっ」
 「あっ、露骨にイヤな顔したなっ。俺うまいんだぞ。直子の頭だっていつも俺が切ってやってんだ」
 「…直子ちゃんみたいにするんじゃないでしょうね」

 結局、若島津は東邦の入学試験を受けることになった。決死の覚悟で父親に相談したところ、拍子抜けするほどあっさりと承諾したという。その様子を日向に説明していた若島津は最後に、「姉さんが何か言ったのかもしれない」とつぶやいた。
 その後、日向は一度だけ若島津の姉に会った。夕刊を配っていると、向こうからショートカットでセーラー服姿の若島津が手を振って近づいてくる。床屋には姉さんが行ったらしい。
 日向は立ち止まり、帽子を取って頭を下げた。

 四月、日向小次郎と若島津健は東邦学園中等部に入学した。
 

- end -

 

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