scene 2 日向
10日前、夕刊の配達のときに拾ったのは、とんでもない大物だった。
「このチームは守備が弱い」と吉良監督もDFの育成には力を入れているが、ゴールキーパーだけはどうにもならなかった。だいたい最初からキーパーを目指して入部してくる小学生などほとんどいない。とりあえず体の大きい順に無理矢理ゴール前に立たせてみるが、問題は体格よりも判断力と瞬発力である。手の打ちようもなく、明和FCは大量得点・大量失点のパターンを繰り返した。
「父ちゃんのおかげだ」
日向は父親の遺影に話しかけた。
1年ほど前に死んだ父が事故に遭う直前に息子へと買い求めたサッカーボール、それを日向は肌身離さず持ち歩いた。そのボールが、若島津を連れてきてくれたのだ。ついでを言えば、新聞配達を始めたのも父を失って家計が苦しくなったからだった。
「兄ちゃん、どうしたの」
兄を慕う幼い弟妹・尊、直子、勝の三人が集まってくる。
「父ちゃんにお礼を言ってたんだ」
「お礼?」
「ああ。父ちゃんは俺にすげえキーパーを寄こしてくれたんだ。見ててくれ、父ちゃん。俺は必ず全国大会で優勝するぜ!」
この10日間、日向は早朝に若島津と待ち合わせ、朝刊を配りながら一緒にジョギングをし、朝食の時間までシュート練習を繰り返してきた。
「明日からクラブの公式練習が始まる」
シュート練習の帰り途、日向は言った。
「夏の大会のあとしばらく休みだったんだが、今度から代替わりだ。俺がキャプテンになる。おまえも明日から来てくれ」
「……」
「どうした」
「何でもないです。わかりました、キャプテン」
そう言って若島津は笑った。まだキャプテンじゃねーよ、と日向は若島津の頭を軽く小突いた。
翌日、日向が若島津を連れて練習場に現れると、チームメイトの半数近くが目を丸くして二人を指差し、口々に叫んだ。
「若島津!」
「なんで若島津が?!」
「若島津がサッカーやるのか?!」
驚いたのは日向の方だった。
「おまえら若島津を知ってんのか!」
「同じクラスだよ、俺」
チームメイトの一人、沢木が言った。明和FCはいくつかの小学校からメンバーを募っているが、練習場に近いためか沢木の学校の生徒が一番多い。日向は振り返って若島津を見た。
「本当かっ!」
「ええ、まあ」
「おまえ、1コ下じゃなかったのか?」
「年いくつだって訊かれたから、10歳。12月で11歳」
「…早く言え。いいぞもう敬語使わんで」
「慣れちゃったからいいですよ、日向さん」
若島津は屈託のない笑顔を見せた。沢木たちは口を開いたまま二人のやりとりを見つめている。そこへ吉良監督が到着し、皆あたふたと整列した。
公式練習のあと、若島津は吉良監督と話していた。短期間でキーパーの技術を習得するため、監督から個人的に特訓を受けることになり、その日程等の相談をしているようだった。
それを横目で見ながら日向がリフティングをしていると、沢木が近寄ってきた。
「日向、すげえなあ。どうやって手なずけたんだ? あいつ」
「手なずけたって…」
「俺、若島津がサッカーしてんの初めて見たよ。どうやって口説いたんだよ」
「ああ、あいつ道で俺のシュートを止めやがったんだ。で、キーパーやらねえかって言ったらついて来た」
「…何やらさっぱりわからんが、しかしよく来たな。空手の方はいいのか?」
「あいつ空手やってんのか」
「知らないのか?!」
日向がうなずくと、沢木は絶句した。
「…マジかよ。若島津んち、何代も続いてる空手道場でさ、若堂流っていう流派の親玉なんだ。あいつも小さい頃から空手やってて、中学生でもかなわないくらい強いんだって。全国大会でも二年連続優勝してるんだぜ」
「そういうやつだったのか…」
「大会近くなると授業も出ないしさ、あそこまでハイレベルだと学校も容認してんだよね。運動会とかの行事も出ないし、クラブ活動もしないだろ。めったに口もきかないし、笑ってんのも今日初めて見たよ。なんか殺気立ってるっていうか、人を寄せ付けない感じだったけど」
「へえ…」
若島津は公式練習に加え、週2回吉良監督の個人指導を受けることになった。ゼロから始めたとは思えぬ上達の速さで、2週間もすると他チームとの練習試合に出るようになった。
そして、あの若島津を子分扱いしている、ということで日向の評価は格段に高まり、若島津の真似をして敬語を使う同級生が出始めた頃、チームは日向を中心として急速にまとまった。明和FCは突如として、抜群のチームワークと鉄壁の守備を誇るチームとなったのである。
毎朝ではないが、朝刊配達ついでの朝練も続けている。ある日、日向はジョギングをしながら若島津にたずねた。
「おまえ、どうしてキーパー引き受けてくれたんだ?」
「どうしても何も、否応なしだったじゃないですか」
「そりゃそうだが…嫌だったら断るだろ?」
若島津は少しのあいだ考え込んだ。
「…やってみたらおもしろかったってとこですかね」
「そんなもんか」
「俺にもよくわからんです。それよりキャプテン、絶対優勝しましょう!」
そう言って若島津は笑った。
日向もつられて笑った。夜明けの空に、父親の笑顔が見える気がした。