−−!!
日向は飛び起き、胸の鼓動が収まるのを待った。
相変わらず例の夢だ。今日の夢では最後まで行ってしまった。
最悪なのは若島津が東邦のユニフォームを着ていたことだ。夢の中で組み敷いている相手は、姉さんとの混同ではなく若島津そのものになってしまったらしい。
「なんなんだよいったい…」
さすがの日向も参った。毎晩これではたまらない。あらぬ寝言を言いかねない。そしていつか若島津にバレる日が来る。
若島津はあまりにも潔癖で、純真であった。
夕方2年生に囲まれ、気迫で部員全員を追い払ったあと、若島津は日向に言った。
「すみませんでした。俺のせいで日向さんまであんなひどい侮辱を受けて…」
若島津は頭を下げ、許せない、と拳を震わせた。
気にするな、と言いながら日向は内心ひどく狼狽していた。
若島津の言うのは2年生の言った「こいつらデキてんじゃねーの」「日向さん好きです。抱いて」云々のことだ。これを聞いて日向はギクッとした。侮辱どころか毎晩毎晩夢で若島津に言わせているセリフである。
若島津に知れたらどうなるか。あの誇り高い若島津のことだ。当然怒り狂ってブチ切れる。いやそれより、俺のことを軽蔑し、こんな最低な奴について東邦まで来たことを激しく悔むだろう。
だめだ。気づかれたらおしまいだ。
隣のベッドの若島津は仰向けのまま、ピクリとも動かず静かに眠っている。全く寝相が乱れない。寝返りも打たないらしい。寝ているときでさえ礼儀正しい若島津である。
きれいな寝顔だった。普段は眉根を寄せて睨みつけるような目をしているが、ふつうにしていれば可愛い顔だ。全体的に小作りな顔立ちに、大きく張った涼やかな瞳。今は多少日に焼けているが、元の肌色はかなり白い。あの仏頂面は、女顔のコンプレックスを隠す手段なのかもしれない。
「部屋、変えてもらうか…」
日向はため息をつき、再びふとんをかぶった。
翌日、若島津がグランド整備をしているところへ山口が現れた。
「おまえがただのお嬢さんじゃないことはわかった」
「……」
「だが、やはりキーパーとしての実力はわからん。本当におまえが俺より優れているのかどうか、勝負して確かめたい」
「勝負…」
「ああ、今日の練習後、PK戦をやるのはどうだ。俺が負ければもう何も言わん。おとなしくおまえの控えになるさ。ただしおまえが負けたら」
聞き耳を立てていた周りの1年生が顔を見合わせる。
「今度の新人戦では先発を辞退してもらう」
「バカ言うな!!」
声を上げたのは日向だ。当の若島津はいつも通り冷静に日向を抑え、そして抑揚のない声で言った。
「それだけでいいんですか」
「なに?」
「新人戦の先発だけじゃ不安なんじゃないですか。第一監督が認めるかどうかもわからないでしょう」
「じゃあどうするんだ」
「俺が負けたらその場でサッカーをやめます」
山口は絶句した。
「おい、本当にいいのか若島津」
PK勝負の開始前、若島津の周りを1年生部員が取り囲み、口々に言った。
「八百長に決まってるよ。蹴るのは全員2年生だろ。シュートコースなんか打合せ済みだよ」
「わかってる」
「こんな不利な勝負受けることないだろ。監督だって認めないよ。なあ日向さん」
反町の心配そうな顔を横目に、若島津は黙ってキャッチンググローブをはめた。そして日向の方を振り返った。
「あんたもそう思ってんですか」
「おまえが負けるわけねえだろ」
「当然です」
「まともに相手する必要があるのかとは思うがな」
「トラブルの種は今のうちにつぶします」
「そういうことか」
ペナルティエリアの周りには1、2年生部員全員が集まっていた。
キッカーは2年生5人。1人がキーパー2人に対し1回ずつ蹴り、2人目に交替する。5人終わったところで決着がつかなければ、その後は1人ずつサドンデス方式とする。先攻は山口。
まず1人目。ゴール左スミを狙ったシュートをパンチング。
「ほら、事前にコース指定してんだよ。初めから左向いてたじゃん」
たまらず反町が小声で日向に話しかける。
若島津がゴールに立つ。鋭い目でキッカーを見据える。
ボールが蹴られた。ゴール右スミへの速いシュートだ。
「取った!!」
思わず歓声が上がった。若島津は左手で難なくワンハンドキャッチしていた。
2人目、3人目、4人目と、山口も止めた。誰が見ても明らかに取りやすいコースを指定済みの茶番であったが、もうそんなことを気にとめる者はいなかった。
若島津のセーブが部員の想像を絶する凄さなのである。
上に蹴り上げればそれ以上に跳び、ギリギリを狙っても指先まで使ってたたき出し、逆をついたつもりでもポストを蹴って逆側へ飛んでくる。キッカー役の2年生はただ呆然と顔を見合わせた。
「すげえ…」
5人目を止めたあと、ゴールに立ったまま若島津は山口に向かって言った。
「あんたは、もういい」
「なにいっ!」
「このままじゃ勝負がつかないでしょう。そこにいる先輩方全員で、1回ずつシュートしてください。1回でも取り損ねたら、俺の負けです」
「な……」
「さあ、来い!!」
2年生はキーパーを除いて20人。半分近くはレギュラーであり、他のメンバーも控えとはいえ天下の東邦学園で厳しい練習を耐え抜いた精鋭である。
その彼らが渾身のシュートを放つ。
それを若島津が止める。
シュートを打つ。止める。その繰り返しを、部員全員が息を詰めて見守っている。
「次!」
若島津が声を張り上げる。2年生がシュートを打つ。止める。
「次!」
シュートを打つ。止める。
「次!」
静まりかえったグランドに、ボールを蹴る音と若島津の声だけが響く。
「次!」
「そこまで!」
全員の視線が一斉に、声のする方へ集まった。
「こんなことはあまり感心できんが、これで皆も若島津の実力がわかっただろう」
北詰監督だった。監督はギャラリーをかき分け、ペナルティエリアの中で立ち止まった。
「監督…」
山口は青くなって立ちつくしていた。監督はさらに続けた。
「昨年の少年サッカー大会から私は若島津に注目していた。日向のように初めから試合に出さなかったのは、キーパーは他のメンバーとの連携がより必要なポジションだからだ。東邦に慣れてからの方がよいと思ったのだ」
そして監督はゴールに立ったままの若島津に向かって言った。
「新人戦、キーパーはおまえでいく。今後こういう軽はずみな真似は慎むように」
「……」
「…万が一にでもおまえにやめられたらかなわん。わかったな、若島津!」
「は…はい!」