数日後の朝、日向は爽やかに目を覚ました。
今日は夢を見ていない。久々にぐっすり眠った気がする。新人戦に向けて練習が厳しくなってきたからだろうか。何にしてもありがたい。
カーテンの隙間から射し込む朝陽がまぶしい。若島津はまだ起きていないらしい。
日向は起き上がって大きく伸びをし、何気なく隣のベッドを見た。
「うっ」
そして背を伸ばしたまま固まってしまった。
「若島津!」
信じられない光景だった。若島津は、ベッドからずり落ちそうな格好で、左腕をだらりとたらし、うつぶせで、眠っていた。
「おいっ、どうしたんだ! しっかりしろ!」
尋常とは思えない。何しろ寝返りも打たない若島津なのである。だいたいこの時間まで寝ているのもおかしい。日向は若島津を揺り起こした。
「うー……」
気がついたらしい。あかない目をこすりながら、必死で上体を起こそうとしている。
「若島津!」
「あ…日向さん…」
若島津の目があいた。
「大丈夫かおまえ。具合でも悪いのか?」
「はっ!!」
若島津は急にガバッと起き上がった。そして日向の顔を見ると、壁の方へ後ずさった。
「どうした」
「ああああの、ひゅひゅ日向さん、あの…」
「おまえ顔赤いぞ。熱でもあるんじゃねえか」
日向が手をのばすと、若島津は壁に背中をたたきつけるように飛びすさる。
「だだだ大丈夫ですっ。あっあの、昨日ぜんぜん眠れなくて…それでいつのまにか変な体勢で寝ちゃったみたいで…」
「そうか」
「あの…」
「なんだ」
「覚えて…ないんですか…?」
若島津がいぶかしげな目で見る。
「何を」
「夜中…」
「俺、なんかしたか?」
一瞬日向は焦った。何か変なことを口走ったんだろうか。今日はあの夢を見ていない。でも、覚えていないだけかもしれない。
「いえ…覚えてないならいいです…。俺、顔洗ってきます…」
若島津はがっくりと肩を落とし、よろよろと部屋を出ていった。
その後二人で朝練習へ向かう途中、山口に出会った。
「よお」
山口はPK勝負のあと2、3日練習を休んでいた。
「悪かったな、いろいろと。あんなすげえ技見せられちゃ何も言えねえよ。ま、少しでもおまえに追いつけるように俺もがんばるさ。新人戦、頼んだぞ」
「ありがとうございます」
若島津は軽く頭を下げた。
「ところでさ」
山口は急にいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「おまえら本当に仲いいよな。マジでなんかあるんじゃないの?」
「ったく、そういうくだらんこと言うとまたこいつブチ切れるぜ先輩よ。なあ」
若島津、と日向は肩をポンとたたいた。
「おい」
返事がない。
見ると、若島津は目を見開き、首まで真っ赤になって凍りついていた。さっきまで大事そうに抱えていたキャッチンググローブを地面に落としている。
「ああああの、おっ俺」
何だか歯の根が合っていない。日向はグローブを拾いあげた。
「どうした」
「わっ忘れ物、さっ先行ってくださいっ!」
そう叫ぶと、若島津はグローブをひったくり、元来た方向へ駆け出した。残された日向と山口は目を丸くして走り去る若島津を見送った。
「なんだ、ありゃ」
「さあ」
若島津のおかしな挙動はしばらく続いた。
「なんか若島津変わったよね、日向さん」
本人がいないのを見計らって、反町が話しかけてくる。
「前はもっととっつきにくい感じだったけど。丸くなったっていうか…可愛くなったよね」
「なんだそりゃ」
「みんな言ってるよ。あんなにもめてた先輩たちも今じゃすっかりあいつのファンみたい。元々礼儀正しいし、からかっても怒らなくなったし、日向さんよりよっぽど話しやすいって」
「悪かったな」
反町の言う通り、なぜか評判のよくなった若島津は2年生全員と和解。2人の2年生キーパーは控えにまわり、若島津は誰もが認める正ゴールキーパーとなった。そして今後2年間にわたって東邦のゴールを守り続けることとなる。
「日向さん、若島津になんかしたの?」
「何もしてねえよ!」
「ふーん」
日向が若島津から挙動不審の真相を聞かされるのは、数年後のことである。
「…あの日の夜中、俺、あんたの呻き声にたたき起こされたんですよ。あんまり苦しそうなんで、枕元まで行って大丈夫ですかって声かけたんです。そしたらあんたは急に起き上がって俺の顔をじーっと見たかと思うといきなり…」
キスした、という。
若島津が驚愕のあまり動けないでいると、日向は若島津をぎゅうっと抱きしめ、はっきり「若島津」と名を呼んだ。
「…で…?」
「…それで気が済んだのか、俺を見てニヤッと笑うとあんたはそのままぱたっと倒れこんで、あとは朝まで気持ちよさそうに寝てましたよ。俺はもうどうしていいかわかんなくて、とりあえずベッドに戻ったけど寝られやしません。明け方まで一睡もできず、ついに疲れきって枕に突っ伏したまま意識を失ったようです」
「へえ…」
「朝になったらどうしよう、何て言おうって死ぬほど悩んだのに、あんたは何にも覚えてないって言うし、それならそれでなかったことにできればいいけど、こっちはあの感覚が生々しく残ってて、とてもあんたの顔まともに見られなかった」
「…そんなら別に気にすることもなかったんだな」
「は?」
「俺、そんなことになったらおまえに殺されると思ってたんだぜ。それで悩むくらいだからおまえもまんざらじゃなかったってことだろうが」
「それは…」
「ちがうか?」
「……」
それはまだ先の話。
若島津がなんとか落ち着きを取り戻した頃、東京都・秋の新人戦が始まった。